豊田英二 トヨタをつくった静かな社長
公開日:
:
最終更新日:2018/06/16
偉人伝 ものの見方
世界企業トヨタをつくった豊田英二氏
必ず自動車の時代が来る!情熱をかけて自動車つくりを進めて
ついには世界一までなったトヨタ
豊田英二は外車の素晴らしさに目を奪われて学生時代には
自動車のディーゼルエンジンの設計を行い、トヨタ自動車創業者豊田喜一郎
と共に自動車の研究開発に没頭し国産自動車を創って行く。
国内だけでなくアメリカで通用する自動車つくりをという考えで
常に、海外でも通じる車作りと、かんばん方式という生産体制を
確立した功績は大きく、着実に成功を積重ねていった豊田英二の
経営方法には学べるところが多くある。
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良いものでないと売れるはずがない
豊田英二の叔父は、発明王として有名な豊田佐吉
豊田英二は、豊田佐吉の弟、平吉の子供であった。
平吉は最初は佐吉と共に機械を売り込んだり、動力機械の研究など
していたが、その後独立して豊田式自動織機をつかった工場を経営していた。
工場の経営は、第一次世界大戦の需要もあり順調に事業は伸びていった。
そのとき工場ではスチームエンジンを使って動力をつくっており、夜になると
これを使い電灯を灯していた。これはまだ電気が一般的になる前の時代である。
英二は小さいころにこのスチームエンジンに非常に興味を示して触りたがったり
実際に動かしたいと希望をしていたという。
もっとも子供なので相手にされなかった。
そんな時に、父、平吉が英二に問題を出してきた。
「ニューヨークの綿相場は今日はいくら。その綿をつかって糸をつくり、織物にして
中国に売る。それは儲かるか、儲からないか?」
というのである。当時小学生だった豊田英二は
「中国にうれば儲かる」という回答を出している。
実際にこの問題をつくには相場を知らなければ分からないし、工場の経営もある程度
理解していなければ答えを導くことは出来ない。
小学校時代を終えて、東京大学工学部へ進学するが、当時自動車が徐々に普及し始めていた。
もちろん国産自動車はなく皆、外国製の自動車であり、
この頃から、豊田英二は車への興味を持ち始めるようになる。
そして同じ時期に、平吉の下で働いていた豊田佐吉の息子、豊田喜一郎(豊田英二とはいとこになる)
は4馬力のガソリンエンジンを開発していた。
それから、豊田自動織機製作所内に、自動車部が誕生し自動車の生産が本格的に
スタートしていくことになり、昭和10年5月ついに、第一号自動車を完成させるに至った。
当時、大学生であった豊田英二は休みになると工場に顔をだして機械をいじっていた。
その後、国も国産自動車の工業化の推進をし始めて、新規事業であった自動車製造も
事業化できる光が見えてきた。
英二は卒業後に、豊田自動織機へ入社、自動車部へ配属される。
その翌年には、監査改良部に配属された。
ここでの仕事は、トヨタ車に対するクレームや不良箇所の発見、改良であった。
当時、トヨタはトラックをつくっていたがこのトラックは非常に故障も多く
クレームの連続であった。すっかり顧客の信頼もなくなり、
全くトラックも売れなくなっていった。
この時期を後年、豊田英二は
「商品の品質管理の大切さを嫌というほど思い知らされた」
と語り
「商品は良いものでなければ売れるわけない」
という基本のことを身にしみて分かったという。
このことは自動車人生に非常に大きく影響を受けた。
製品をしっかりつくるということが、
製造業にとって基本中の基本ということを
学んでいった。
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自動車の時代へ
トヨタ自動車は、流れ作業など新たな生産体制の下で好調な
スタートをきっていったが、戦争時期ということもあり、
乗用車よりも、軍用のトラックのほうが順調であった。
その後、戦争も終わり、GHQとの交渉を行い、トラックとバスの生産を許されて
まずそこから始った。
しかし、製造して販売するものも、半分は代金回収が出来ない焦げ付きとなり、
加えて資材不足により生産量も上げることができず、かつ、労働争議が頻繁に起きて
従業員の整理も出来ず、いよいよ倒産の危機になり豊田英二も資金繰りに
追われることになるる。
最終的に日銀の名古屋支店が融資をしてくれることになり、何とか
この危機的状況はだっすることが出来た。
この後、トヨタは人員整理と工販分離を行い、経営的には身軽になっていき
豊田英二もこのときに常務にまで昇進している。
その後、朝鮮戦争が勃発しトヨタは再建の糸口を見つけることになる。
米軍からトラックの大量注文が来たのだ。
そして、これをきっかけに渡米してフォードとの技術提携のためであった。
渡米した英二は
「フォードなどたいしたことなかった。
スケールが大きいだけで
トヨタで出来ることばかりだ」
しかし、戦争もおわりもうまもなく個人がのる自動車の時代が来る。
10人に1人が車が持つ時代は必ずくる。
これは、創業者であった豊田佐吉の
「時流に先んずべし」
という教えが頭にあった。
第二次大戦終了後から10年目にトヨタはクラウンを発売することになった。
これは国内では上々の評判だった。
国産乗用車クラウンをアメリカで発売も散々な結果だった。
これは、車の馬力不足、高速での不安定感、など致命的な欠陥がいくつも
浮かび上がった。実はわざわざこのために、米国トヨタと言う会社も設立していたが
最初の輸出では大失敗に終わった。
しかし、これがきっかけでトヨタは国際競争力ということを考え技術力の向上ということに
向かっていくことになる。
後に、再進出したがこのときは、まず販売先ではなく
メンテナンス部門をつくり、故障などあった際にすぐ対応できる仕組みを創り
顧客に安心感を与えた上で販売攻勢を行っている。
一方で国内販売は順調で既に需要が追いつかないほどであった。
月の生産量は、2000台位が上限であった。
そして、このときに月間1万台生産可能な工場建設を図ったのである。
かなり大きな賭けであるが、英二には勝算があった。
もう日本には自動車時代が来ていたのでのである。
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実行力に全てはかかっている
いくら良いアイデアであっても、そして時代を読めても、具体的に実行しないと
何も成らない。実行に向かっていって初めて実現するものである。
生産方式でも
「かんばん方式」
というものを産出した。
これは、毎日、必要なものを必要な数だけ作るということ。
例えば、従来はまず部品をつくりそれから、穴をあけたり加工するという方式であった。
かんばん方式というのは、これらを全て流れ作業にするというものである。
すると、余計なものが要らない、倉庫も要らない。ランニングストックが減り、余計な
お金もかからない。更に、買ったものが作る前に売れてしまえば
運転資金すらひつようでなくなるという極めて効率の良い方式である。
しかし、これは中々社内に根付くまで時間がかかった。
これは徹底的に落とし込む必要があるとして、
不良品がでた工程を改善し品質向上をしていくという改善方式の仕事は
豊田英二が若き頃味わった、品質の低さによるクレームの嵐を受けていた苦い経験によるものだ。
この方式は自動車産業だけでなく、日本の製造業を牽引してきたことは疑う余地もない。
一企業であったが、製造業の模範になったのである。
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目の前に仕事に夢中になれ
「どんな仕事でも目の前の仕事を無我夢中になることだ。
夢中になると色々見えてくる。
夢中にならないと違う景色ばかり見えてくる。
毎日、毎時間、目の前のことに集中していくことが
発展を呼んでくる」
トヨタ自動車5代目社長であり中興の祖いえる
豊田英二でした。
石川博信
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