大倉喜八郎 人のやらないことをやる
公開日:
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最終更新日:2018/05/28
偉人伝 ものの見方
大倉喜八郎 一代で大倉財閥を創った
GHQでの財閥解体で、なくなってしまったものの戦前は三井、三菱、住友に
匹敵する大財閥であった。
大倉喜八郎は「人のやらないことをやる」という経営信念と
信用を何より重んじて努力した努力の人とも言える。
仕事でのモットーは、納期を守る、筋を通す、日々情報収集を
怠らない努力をした。
成功している経営者が多いなか、大倉喜八郎は努力の人であり
やる気があれば誰でもできるという見本でもある。
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慶応3年1867年鉄砲商、大倉屋で商いをしていた大倉は
店に、スナイドル銃など幾つかの見本を並べていて
注文をうけるとその足で現金で武器を買い付けるという方法をとっていた。
資金がなく在庫を抱えることが出来なかったからである。
時は幕末で、政情不安の中、町には浪人や強盗が溢れていて
取引自体も危ないものであった。
このときは大倉は現金で決済と契約維持これを
確実に行っておくことで信用を買い取っていく。
明治維新を目の前に、武器の取引は引っ張りだこになっていた。
政情不安の中でも、注文主や横浜の外国商人たちから
注文を多く頂くようになっていた。
そして事業がのびていくと、誰よりも早く横浜にいき
到着した武器を買占めしてしまうということを行った。
時流をつかみ、これは大当たりになった。
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当時の大倉には、一つエピソードがある。
大倉は武器商人として、官軍、彰義隊の双方に武器を売っていたが、
彰義隊の支払いがなされないと武器の販売をやめてしまった。
しかし、戦争の真っ最中で彰義隊も武器を手に入れないと大変なことになる。
腹を立てた彰義隊は大倉を上野の本陣に連れて行ってしまった。
この少し前に、他の武器商人が官軍に武器を売ったとして
切られたばかりであった。
しかし、大倉は本陣に連れて行かれても全く臆することもなかった。
そして本陣で
「自分は越後(現在の新潟県)から出てきているので、代々公方様に恩恵を
受けている皆さんとは違うし、一介の商人であって政治には関心もない」
さらに続けて
「商人にとって損得があるだけなんです。代金をきちんと支払って
くれている方がお客さんで、お宅たちはお金も払ってくれない。
だから鉄砲も売ることも出来ない」
と言い放ったのである。
何とか、この危機は脱出できたもののこのように
筋をとうし、時には命も顧みない懸命さでむしろ
信用を勝ち取っていくのである。
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大倉喜八郎の生い立ち
1837年 越後(現在の新潟県)の新発田市に生まれる。
実家は質屋で三男であり、いづれは独立しなければと考えていたという。
18歳のときに母の死をきっかけに、江戸へ上京する。
最初の奉公先は、かつお節屋で働き3年後独立し、乾物屋として
スタートをしていくが、乾物屋をまず成功させてもっと大きな仕事を
やっていくと志した。
時代も幕末期であり、時代の動きを感じ取り
「戦争が起こり、必需品であり武器商がこれから大きく成長する」
と感じると、武器商人への転換を決意し
すぐさま、乾物屋をたたみ、数ヵ月後には神田に鉄砲店を構える。
時代の読みは当り、武器商人として成功するがさらに果敢に新分野への
進出を考えたのである。
これは、幕末から維新にかけて戊辰戦争も終着状態になり需要が減っていくと
見通したのである。
さて、戦争がおわり世も安定してくると伸びていく仕事は
貿易、それから新国家にあたり土木、建設業が伸びると考え
これも読みが当り事業は急成長している。
土木、建設は中でも急成長していったが、貿易において
輸入はともかく、日本人が外国へいくというのは
非常に金額も高くしかも、官費でないと許可されなかったが
大倉は私財をだし、通訳もつけアメリカに行くことが許され
海外視察へ出かけた。
明治政府の特命使節団である、岩倉使節団が出発してから
半年後のことである。如何に大倉喜八郎が先見性にとんでいたか
分かるエピソードである。
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洋行の成果
二年近くの洋行を終えると早速貿易商社を作った。
その2年後にはロンドンに支店をつくるなどスピードがある行動をしている。
私費洋行や海外支店も、当時の日本人としてははじめてのことで
人がやらないことをやる
という大倉のモットーを現している。さらに
人に先んずれば制す、それには優良な情報源が必要だ。
ということを実践していった。
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大倉は時には危険を顧みず、国家の為ということも行った。
時には守銭奴呼ばわりされることもあったが決してそのそうなことはない。
洋行中に懇意になった時の権力者である、内務卿大久保利通の依頼で台湾出兵の
兵站業務でも、当時の台湾は日本にとっては未開の地であり
三井など財閥もこの仕事を断っており、危険もさることながら利益がでるかどうか
分からないという状況であった。
しかし、大倉はこの仕事を請けたのである。
大久保との信義をきちんとすることでやがて国家事業の多くを受けれる可能性がある。
そうして実際に手掛けたものの、この仕事はトントンであり、台湾に連れて行った500人
中、128名が当時の台湾で死亡し、その補償問題はかえって損害をこうむった。
大倉は、日本と世界との差を痛切に感じており、国家事業には非常に関心をもっていた。
日本が富めば、必然的に事業も発展するという考えであった。
晩年、大倉は文化事業や社会事業も多く投資している。
大倉商業学校(現在の東京経済大学)もその一つであり、
歌舞伎座もその一つである。
国家に役ちたい、人とは違うことをやりたい。
こういってはばからなかった大倉喜八郎。
信用、情報、というものを重視し大財閥を創りあげた。
ホテルオークラでも有名ですね。
石川博信
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