倉田主悦 日立製作所二代目社長 創業の精神から良心の経営へ
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最終更新日:2018/05/14
偉人伝 ものの見方
倉田主悦(くらたちから) 日立製作所2代目社長・会長
日立は第二次大戦終戦後にどこの会社よりも先に日の丸を社屋に掲げた企業で、
GHQ統治下のなかで勇気をもった行動とも言える。
この「日の丸掲揚」を発案し、実施したのが倉田主悦である。
戦後の動乱期に社長に就任し、労働争議に巻き込まれる中で日の丸を掲揚する
筋金入りの愛国精神を持っていた。
その愛国精神から国産技術の振興の旗頭として科学技術振興財団をつくり
自ら会長に就任したほとである。
愛国者であり、信念と努力の人といっていい、倉田主悦が日立という一企業
だけでなく日本の科学技術向上に果たした役割は大きい。
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追い詰められて必死になったとき道は開ける
大正7年のことだった。
古河電工から一通の公文書が届いた。
「貴社では電線製造に踏み切るそうですが、電線部門での今後10年の利益見通し
はいかがでしょうか?もし貴社が電線製造をやめるのであれば、当社には今後10年間の
利益を保証する用意があります」
というものだった。
当時、日立は古河電工から大量に電線を買っていた。日立が独自で電線を製造することに
なれば古河電工はお得意様を失うことになってしまう。
そのようなことで、古河は日立の10年分の利益を肩代わりしても競争を防ごうと
したのである。
日立側にとってもこの提案はかなりの誘惑なものであった。
これには煮立ち内部も相当揺れたのだと思うが当時所長であった
小平はこの提案を蹴った。
あえて苦難の道を選んだのだった。
倉田は当時小平の部下であり電線製造の責任者でもあった。
小平の決断に倉田は「俺を信用してこの提案を蹴ったのだ」
と感じたという。
しかし、お金もない中での電線製造は困難を極めた。
なんども何度も失敗を繰り返し、
後に
「人生の中でこれほど追い詰められたことはなかった。
必死になりふり構わず仕事に没頭した。
しかし、そこまでやれば道は開けるということも
同時に知った」
苦心の末になんとか電線を成功させると上司の小平は
「ご苦労だったな」
と声をかけてくれてこれが何より嬉しかった。
倉田は小平という、自分を信頼してみてくれている上司がいることで
苦難が多い仕事であったが電線製造をつくることに成功した。
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一生をかける仕事に出会う
日立から国産技術振興を根付かせた倉田は大仏次郎の本の一節を
印象深く覚えていた。その一節は
「自分で選んだ道は、所詮一筋に踏んでいくよりない。
この世でいきるということは他の人々とつじつま合わせすることでは
なくて、どこまでも自分との勝負である」
この一節が生涯の生き方になり、
「そうあるべきだ」と倉田は生きてきた。
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倉田は仙台工業を卒業後、日立の前進である久原日立製作所に入社。
当時は型抜きという仕事をしていたが、その5年後のことだった。
九州に帰省中の倉田に一通の電報が入った、後の日立製作所創業者の小平浪平からだった。
「シンキキカクアリ、スグモドレ」
という電報だった。
倉田は「これは電線の製造だ!」とピンときた。
当時何度となく、小平に電線の製造を提言していたのである。
いよいよいか!と
嬉しく思うと同時に、良く見てくれている上司に大変感激したという。
当時の日立製作所では電気機械を製造するにあたり大量の銅線を
古河電工から買っていた
しかも古河電工も自社の仕事が忙しくなると度々納期もおくれ
しかも品質にばらつきもありこれも問題であった。
日立製作所は関連会社で日立鉱山が大量に精錬しているので
ここから買えば何も問題ないはずだ。
そう考えていたのである。
九州から取って返った倉田は小平を訪ねると、
「お前が以前から言っていた電線製造だがやってみろ」
ということだった。
実は、倉田には電線製造の経験も知識もない。
もちろん電線をつくる機械もない。
小平はそこから「やれ」ということだった。
そして小平は
「お前なら出来る」
と倉田を励ました。
このとき倉田は
「これは俺の一生の仕事だ」と確信したという。
実は、倉田は仙台工業卒業であるが、後輩の東大出の社員の給与の
半分、しかも主流でなく傍流の型抜きという仕事で不満がなかったかと
言えば嘘になってしまうかもしれない。
今回任せてもらった電線製造も実は主流の仕事ではないものの
一つの事業を任せてもらったことに大変、心意義に感じたのである。
小平からはまず、工場の設計を指示された。
しかしそんな経験も知識もない。取引先の
古河電工の施設を見ることにしたが見せてくるわけもない。
そこで「電線の故障や納期の催促ということにして工場を見て廻った」
簡単にいうとスパイのようなことをしたわけである。
機械の構造をしっかり覚え、根堀り、葉堀り聞く。
あまりにも聞くので疑われると見るや、話をそらしていく。
その繰り返しをした。他にも、住友電線や藤倉電線という企業にも訪ねていった。
そんなことを繰り返し、どうにか工場の設計をしていると
本社である久原鉱業から横槍りが入った。
「大規模な電線をつくるので技術者をこちらによこせ」というのである。
ひどい、と抵抗したところでも所詮は一社員の倉田は
本社のある大阪に移った。そしていざ、工場を建設しようとすると
計画が中止になった。工場建設費4500万円が工面できなくなったのである。
振り出しにもだった倉田は、日立にもどり再び電線工場の建設に取り掛かる。
しかし、ここでも難関が待っていた。
機械の製作費として小平が提示してきた予算が35万円だった。
これでは、部品一つつくれない、直談判に及ぶと小平は
「今は、工場がひまだから、工場でつくればいい」という。
要は、お金がないから何とか自分で考えてやれ、ということだ。
困難を極めた電線の製造も何とか出来上がり、受注もどんどん増えて
工場規模も段々と大きくなっていった。
しかし日立では所詮は外様の扱いであった。
その後、倉田は自分でも営業に出かけるようになる。日立の賃金制度ではない
奨励金制度を、電線部門では導入し部門での赤字は一度も出さなかった。
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運も味方する
やがて戦争おき、終戦の年の8月6日に倉田は広島で生産増強会議があるからと
出かけた。これは産業界の代表と知事が出席する会議であったが、通常は
この会議の時には前泊を広島でしてから会議に臨むというものであったが
たまたま、長男がもどってきており、日曜日ということもあり自宅で過ごし
月曜日の朝一番の電車で広島に行くことにした。
しかし、電車に乗ったものの遅れが出ている。ちょうど、岩国を過ぎたあたりで空襲警報が
出て、空を見ると広島の上空にキノコ状の雲が覆っている。
更に爆音、そして黒い雨が降ってきた。
原爆が広島に落ちたのは8時15分。倉田が広島に着く予定の15分前の出来事だった。
そして終戦を迎え、公職追放ということで小平以下16人が日立から追放された。
残された社員では倉田が一番年長者であった、このとき58歳。
小平は、会社を去るときに後継者に倉田を指名した。
その後、GHQより命令が下る。
日立グループは大きいので、子会社や関連会社を分離して、その上で本社も分割すべきである。
そして19分割案というものを日立に出した。
倉田は、そんなことをやっていては企業として存続できない、として
藩論としてリヤカー5台分にもなった資料を作ったのである。
もちろんGHQも中々おれるはずもない。
しばらくするとGHQから担当のロビンソンがやってきて倉田に
「思い切って粘るんだ、いつまでも粘ればいい、これはヒントだ」
という。
社内ではGHQからこんな言葉を引き出す倉田というのは
とてつもない男ではないか?と信望者が現れ始めた。
倉田はロビンソンの言葉を信じ粘りまくった、その歳月は2年半もかかった。
そして、GHQから19分割案は撤回されるに至った。
提示から2年半ものあいだ、戦時中での増産体制で膨れ上がった人員を整理し
深刻化しつつあった労働協議も大胆に処理をした。
時は戦後復興で需要も徐々に回復しておくと倉田は科学技術振興財団を作る。
国産技術を高め、伝える必要性を感じていたからである。
技術者から経営者へそして戦中から戦後の労働争議も乗り越え
今日の日立グループの基礎を創ったのである。
倉田主悦は、天才肌でなく、実直な努力の人であり
並外れた意志と粘り強さが際立っている男であった。
石川博信
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