石橋正二郎 ブリジストン創業者
公開日:
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最終更新日:2018/05/02
偉人伝 ものの見方
ブリジストン創業者 石橋正二郎 志高い経営者であった
世の為、人の為の仕事をする。
ブリジストンをはじめ、日産自動車との合併をされたプリンス自動車の出資者でもあった。
日本のゴム産業からタイヤ産業まで多大な功績を残した。
事業には大成功したが、最後の役割として
自分の息子を若くして会長職に棚上げし、同族でない柴本を社長に抜擢した。
最後の人事では、同族企業の弊害を考えてわざわざ同族でない柴本を社長にした
理由は、もちろん同族会社での弊害もさることながら
実は、息子にしても娘婿にしても優秀であったが
同じ力量であれば、同族者を選択しない、というこの決断が社会に非常に
評価された。日本だけでなく世界的企業になるために必要という最後の英断であった。
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福岡の久留米出身
家業では仕立て屋さんで、本人は進学を希望をしていたが、親に反対されて
断念し家業を兄とともに継ぐことになった。
後に当時を振り返り
「それならば全国に広がるような事業でかつ、社会の為になるような事業をしよう」
と決意したという。
それまで地道にシゴトをしてきた父とは反対に、石橋正二郎は革新的な経営方法を
次々に取り入れていく。
そもそも仕立て屋は、色々な服を作る仕事で朝から晩まで作り続けるシゴトで
とても非合理的に映ったという。
需要が一番多い、足袋に生産を集中することにしたのである。
当時は足袋が一般的な履物で需要が多いと見込んだためである。
更に、雇用制度も変革していく。
当時一般的であった徒弟制度を変えて、労働時間を短くしていった。
これは、徒弟制度ではほぼ無給でしかも長時間働くために
生産性が上がらないと考えた為であった。
やる気と責任感を持たせる為であったと後に語っている。
徒弟制度を廃止し雇用に踏み切った。
しかし、足袋の需要はあるものの、市場にすぐ通用するほど甘くはなかった。
地元や大阪の大手が市場を圧倒的に占めていたのである。
しかも、工場も新設して資金繰りにも終われ、営業もしなければならず
悪戦苦闘の日々が続いていった。
厳しい経営状況のなか、打開策を常に考えていた。
すると
売上げが伸び悩むなか、閃きが生まれる。
大正期に状況して市電にのった際に何処まで乗っても
5銭であった。これにとてもとても感銘をうけた。
また、浅草で繁盛している均一発売にも目を奪われた。
当時、着物は一反いくら、と決まっているが
足袋は文という単位で足の裏を計り、とても細かく価格が決まっていた。
その上、色によっても値段が違っていた。
つまり、お店にいって足の裏を測ってしかも色まで指定しないと
そもそも金額がでないのである。
とても面倒で不便なものだが、誰も疑問に感じていない。
こんなことをやめて
均一で販売したらどうか?
と閃いたのである。
さらに、ネーミングも変更してアサヒとして
当時、利益は2割ほどとしか見込んでないのが業界の常識であったが、
工場の生産ラインを使い、大量生産することで常識よりも
安くすることで大手の差別化を図ったのである。
用意周到の準備の末に「20銭均一アサヒ足袋」
を九州の炭鉱や製鉄所、造船所などの大口顧客から小売りに
まで売り込みに行き、結果これが大好評で30万足がたちまちにうれた。
折りしも、第一次大戦が勃発して世界的な不況がある中で
同業者も不況にあえいでいたがアサヒたびだけは注文が殺到している
状況であった。
同業者はアサヒ足袋は粗悪品だ。
と、こき下ろす風潮もあったがとうとう同業他社も均一価格にしてきた。
若干25歳のときの話である。業界のリードをし始めたのである。
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景気の良い、悪いというのはいつの時代でもある。
常にそこを見据えて、在庫調整をしたり原料を先回りして
安く抑えたり、次々に手をうっていった。
しかし、不況の何がやってくると売掛金が多くなり取引先の倒産が相次いで
起こり危機的な状況が襲ってきた。
先を見通す
今までの商品も悪くはないが、ここが潮目だとにらみ
足袋から「地下足袋」への生産転換を図る。
わらじは当時一日、一足使い潰すというのが常識であったが。
この不便さに目をつけて、足袋の下にゴムをつけるというものを
作ったのである。
これは当時同業他社も作っていたが、ゴム底がはがれて水にも弱いという欠点があった。
そんなときにアメリカのテニスシューズをみて石橋は閃く。
底のはがれない足袋を作ればいい!
悪戦苦闘の末につくったものの、さっぱり売れなかった。
消費者になじみがないということと、商品は粗悪品だ!という
クレームが相次いだのである。
これは、営業方法に問題がある、と考え社員に地下足袋をはかせ営業に出させるなどして
工夫した末すこしづつ、業績の伸びてきた。
業績の伸びは、関東大震災が大きなきっかけであった。
現場でつかったり地下足袋の需要が高まったのある。
しかし、地下足袋を作っている工場が焼けてしまった。
そうこうしているうちに、同業他社は類似商品を出してきた。
しかし、粗悪品ばかりで、消費者は困惑していた。
石橋はこれは、地下足袋自体の信用も落とすと考えて
特許侵害の訴訟を起した。
そして和解する企業には特許を分権するとして製造を認めたのである。
その後、工場は火災を契機に更に生産性をあげるために新たに工作機械を
導入した。
これから戦争なども追い風になり破竹の勢いで販売が進んでいった。
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地下足袋やゴム靴だけでは駄目だ。
これから需要があがるのは車であり、タイヤである。
ブリジストン誕生
事業としては既に大成功していたが新たな分野を開拓しようというのである。
当時は輸入タイヤに頼っていたが、これを国産化に成功すれば日本の国力自体が
上がってくるという考えだった。
国を思う気持ちと、時代を読む目で果敢に取り組んでいったということが
石橋正二郎の凄さでもある。
しかし、タイヤの技術は難しく、当時たびで上げていた利益が200万円ほどだったが
半分の100万円を技開発費につぎ込むという力の入れようだった。
また、タイヤの名前を商標登録にする際に石橋を「ストーンブリッジ」という英訳を
逆さまにして「ブリッジストーン」としたのはこの時期である。
技術も劣る国産タイヤだったがなんとか、製造が出来るようになると
「ブリジストンタイヤ株式会社」として分離、独立させた。
しかし、折りしも戦時中ということもあり、重要な国策会社として成長した。
戦後、石橋は日本足袋を離れてブリジストンの経営に専心する。
石橋の頭には、常に事業を通じて社会に貢献しなければならないというものがあり
後年、ブリジストン美術館の設立に代表されるような社会活動はその現われの一つでもある。
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国産タイヤから世界進出
タイヤの国産化という大義を掲げたものの、単なるナショナリズムにならず
世界第二位のアメリカのファイヤーストーン社の買収もあり
世界進出を果たしていく。
「遠大な理想を実行することで大きな幸福を与える」
というのは経営理念でもある。
地下足袋から始った石橋の事業は
タイヤのシェアで言えば、世界の22パーセントを抑えるまでなり、
現在世界第二位である。
逆境こそ飛躍するチャンスであると、進めていった石橋正二郎。
事業の社会への貢献を考えた先見性も志も高い素晴らし経営者ですね。
石川博信
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