偉人の仕事術 初代内閣総理大臣 伊藤博文
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最終更新日:2022/07/15
偉人伝 ものの見方
伊藤博文 初代内閣総理大臣としても有名ですね
伊藤博文は明治維新の中では創業世代である、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允といった
維新三傑の後の第二世代ではあるが、創業グループの志の意図をよく見抜き
具体化してきた人物とも言える。創業世代はそれまでの幕藩体制から王政復古へ
体制を変えたいわば革命世代であり、伊藤博文もその中での活躍もあったが、
創業世代がいなくなった後の活躍した。
明治の今太閤とも呼ばれるのは、下級武士から成り上がりついには位人臣を極めたという
所や、女性好きという点も太閤秀吉に似ているという点でも共通項もあり
しかも、なぜか愛嬌があるという点も親しいというこもあることから
後年そう呼ばれたのだろうと思う。
以前はお札にもなっており有名だった。
伊藤博文は行動力が抜群であった。
そもそも長州藩でうまれた伊藤博文は下級武士の生まれで幼い頃に林家から伊藤家へ
養子に出されたが、これが人生の出発点ともなった。
養子先でも決して家は裕福ではなかったが、向学心をもっており、黒船来航により
江戸湾警備で米原良蔵の紹介で吉田松陰の松下村塾へ入塾することになった。
その後長州藩に戻ってからは塾頭代行の桂小五郎(のちの木戸孝允)の従者になった。
後年になるか
木戸孝允の側近になったということが明治維新以降、伊藤の立場を大きく支えるものになる。
吉田松陰の松下村塾では、松蔭に「周旋の才あり」といわれ外交能力があるといわれたが、
それを飛躍させることは、イギリス留学であった。
長州からイギリスへの留学の話があり、井上馨など長州五傑と後に言われる人員の一人として
留学を行うが、イギリスでは語学から軍事施設から芸術なども広く知見を広めたといわれ
後年ここで身につけた語学というものが、伊藤博文の才能を大きく開花させることになる。
伊藤自身はイギリス留学前までは尊皇攘夷派であったが、イギリスという当時の超大国の
実態をみるにつれ一気に「開国派」へ転向した。
ちょうど、イギリス留学中にイギリスが長州へ四カ国連合艦隊を送るというニュースをみて
急遽留学を切り上げて長州へ引き換えすことになった。
そして下関戦争(連合四カ国と長州との戦い)が終わると終戦協定のために、特使である高杉晋作の
通訳として交渉に同席した。そして高杉と伊藤は一案を練り、この戦いは幕府が長州に命じて行ったもので
あって、賠償責任は幕府にあるとして幕府が各藩にあてた手紙をイギリスのアーネストサトウに渡すことで
各国は賠償金を幕府に請求することになった。これも幕府が長州を嫌う一つの要因にもなった。
その後、長州藩にあっても保守派と倒幕派との争いがおき、保守派(幕府に従おう)という
意見が強くなっていく中で高杉晋作が功山寺挙兵を行った。このときのことを後年伊藤は
「高杉さんが挙兵すると聞いて一番に駆けつけたことが自分の人生の誇りである」
と語っている。
その後戊辰戦争にいたるまで大きな活躍はなかったが、英語が出来ることで
明治維新後は長州閥の有力者として外国事務局から大蔵省から兵庫県知事から
工部卿など要職を務めることになるが、これも長州閥のトップであった木戸の後押しがあったことや
改革を進められる力があったことが大きな要因と思える。
大蔵省へ出仕していたときはには、東京・新橋から横浜への鉄道を走らせる
案が出来たときは、予定を大幅に早く着工、開通させた。その期間は2年半であった。
まだ明治新政府が出来て間もない頃で保守派が多い中でこの鉄道開通は
保守派のみならず、庶民にも新しい時代を感じさせることに大いに役にたった。
その後、伊藤は再びイギリスへ行き、貨幣制度の調査へ出向き、帰国するや否や
貨幣制度をつくり、日本初の貨幣制度の原案である新貨条例が制定された。
その後、岩倉使節団の副使として海外へ行った。
岩倉使節団 この長期間で大久保・岩倉の信任も得ることになる。英語が出来たことが幸いした
この海外への渡航で明治政府首脳たちは、「これは海外へ追いつき、追い越さないと日本がいつ侵略されてもおかしくない」と痛切に感じだという。
時は過ぎて西南戦争で西郷もなくなり、木戸も同年なくなり、翌年には大久保も亡くなった。
明治新政府創業期の重鎮たちが相次いでなくなったのである。そして殖産興業、文明開化など国力を上げる為の政策が物凄いスピードで
実行されていた。これらをまとめ進めていける人材はもう、伊藤博文しかいなかったということもあり、大久保の後を継ぎ第二代内務卿へ
登用される。伊藤を押したのは、岩倉具視であった。
その後は日本の政体を立憲国家にするということで、国会の開設や、内閣制度、帝国憲法制定と第二創業期といえるビックプロジェクトを
自らたちあげ実行していくが、特に立憲国家という所ではヨーロッパに渡航しベルリンの法学者やウィーン大学でも学び法律や行政制度に
ついて学んでいった。このときはもう事実上日本のトップに立っていたにも係わらず、学ぶべきは学ぶという姿勢を終生変えなかった。
伊藤のそのような姿勢をみて、何名かの憲法や行政の専門家が日本へ来日し議会制度や内閣制度などを協力することになる。
また、外国との交流目的で創られた鹿鳴館はしばしば、世間から冷たい目で見られたが、外国との不平等条約を改正するには
必要であり、海外を何度も見てきた伊藤はこのような社交的な場の必要性を骨身しみて理解していたので世間の冷たい目にも
めげず実行していった。
伊藤の面白いところは、自ら創った新しい仕組みではその組織のトップに立っているということだ。
内閣制度を創れば、初代内閣総理大臣になり、華族令を出せば、自ら公爵になっているが
陽性で愛嬌があったからあまり憎まれなかったという。
まだ、英語が理解できることが一般的でない時期に海外を見て
英語が出来るようになったというものが後々に生きてくる。
伊藤の人生を見ていると人との出会いを大事にしていることがよく見えてくるし、
まだ幕末の初期段階で木戸との出会いが大きくかかってきたといえる。
更に、明治政府内でも、木戸以外の大物で大久保や岩倉などにも知遇を得るという
こともとても大きかった。人との出会いを大事にしていたことが自分を広げるチャンスと
思っていたかどうか解らないが、伊藤を押し上げてくれる様々な出会いがあったことは
事実である。そしてなんと言っても行動力である。
大久保が進めた殖産興業、内需拡大の政策はすざましい勢いで進んでいることを
目の前で見て、更に自分がその後を継いだが、大久保の仕事の進め方をみて驚いたという。
それは、部下に幾つか条件を与えて後は細かい指示を与えず、ただこの目的のために
思い切りやれ!という仕事ぶりであった。
志高く、能力もある若手官僚たちの力を引き出しかつ目的を遂行する為には
大久保は能力があると見るや権限も大幅に与えとにかくやりきれ!と指示をだしており
細かいことに口を挟まなかったと。
伊藤も決して長い時間を大久保と過ごしたわけではないが、自分の仕事の見本は大久保といって
はばからなかったという。
学んでは実行する。人との出会いを大事にする。そして語学という当時の武器を身につけた。
伊藤は、この人と思うと喜んで使い走りも買って出たという。
そういう人柄も上長や時代の大物たちから見込まれた理由であろう。
後年、故郷で高杉晋作の銅像を作ろうと地元で話が出ていると聞くと
予算の寄贈と石碑を贈りたいと申し出て
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」
との言葉を贈った。伊藤にとって高杉は生涯兄貴分であったのだろう。
政治家のとしての評価は非常に高く、特に一分野に造詣があるということではなく満遍なく
造詣がありどの様な話であっても理解できたといわれていたり、
海外からはイギリス海軍でジャーナリストのフランシス・ブランクリーは
「武断的でなく、平和的であり、財務にもたけ、策略も機敏であり、西洋の大政治家の特徴を一身
にもっているかの如くである」と評している。
明治維新という国の大分岐点にあって創業グループから第二グループへの移行が
速やかに出来たことで日本は文明開化に成功したとも言える。
その大立者が伊藤博文であった。
伊藤博文のお墓
今は東京の西大井緑地公園内で静かに日本を見守っています。
石川博信
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