田中清玄 日本で一番面白い人生を送った男 大須賀瑞夫氏インタビュー

公開日: : 最終更新日:2017/10/30 偉人伝 ものの見方

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田中清玄(たなかせいげん・きよはるとも読む)

日本でいちばん面白い人生を送った男と「田中清玄自伝」のサブタイトルにはあるが、

そういっても過言でないくらいの人生ですね。

時には政治家を越えた動きをし、国際石油戦争で活躍したかと思えば、麻薬撲滅を謳う

山口組三代目と国民運動を行ったり、天皇陛下への直言もする。

激動の昭和史を動いてきた方です。

どう表現すれば良いのか・・こんな人がいたのか?という位です。

 

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田中清玄の曽祖父 会津藩筆頭家老 田中土佐(玄清) 戊辰戦争の会津戦争で自刃

元々田中家は北畠から甲斐武田氏に使えその後会津に来て松平家の家老職を代々していたという。

田中清玄もこの血筋や先祖の行っていたことを自伝の中でも語っているが、

会津戦争で敗れた為に、会津藩は北海道の函館へ集団移転することになり、田中清玄もそこで生まれ育った。

この幕末の経緯も幼い頃より親に聞いていたと思うが、田中清玄の後の行動を見ていても

大きな権力に屈しない、反骨精神が溢れているところにはこのような先祖の影響が有るかもしれない。

後年自伝の中でも、

「自分が会津藩の筆頭家老の家柄ということもあって変な妥協などしなくてすんだ」と語っている。

幼い頃は、やはり武家の出ということもあり剣道、合気道など武道を行っていた(学生になると空手を始める)

が高校になると青森の弘前高校へ進み、そこではスキーや野球などに熱中したが

ここで一つの契機があった。

スキーで怪我をして入院してしまったのだが、この入院先で

「共産党宣言」を読み、これが前半の彼の行動に大きく影響を与えてくる本だった。

高校生ながらすっかり「赤」に染まっていき、東北学連など徐々に左翼活動を行っていく。

その後東京帝国大学(いまの東京大学)に入るとしばらくして共産党へ入党していく

さらに共産党活動を活発化させていくが、官憲の目も厳しく逮捕などが相次ぎ

共産党自体の活動が壊滅的になるが、田中は同志とともに、再建大会を開いていった。

共産党にはオムスという国際連絡機関がありこのルートから、人員、資金、情報を

集めていった。そして田中自身も上海に渡るなど海外との協力体制を作る為で

そんなことをしている間に、共産党と官憲の間で発砲抗争が起きてしまったが、

この頃田中は、武装共産党の書記長になっており四方八方駆け回っていた。

その直ぐ後に田中の母親が自決してしまったのである。

大きな転機 母の死

母親は「お前のような共産主義者を出してしまって神様に申し訳ない。

早くなくなった父親にも申し訳ないので、私は死を持ってお前を諌める。

お前は良い日本人に成って欲しい。母の死を無駄にするな」という遺言であった。

翌年田中は、治安維持法で逮捕されてしまった。

人生を一番考えていく時期

刑務所にはいっていると、同志たちが次々に転向宣言をしたりモスクワのスターリンから

来る指令もどうか受け付けられないと感じていたときでもあった。

そもそもスターリンはにほんの天皇制を廃止して日本を弱める方針を出している。

ここで、ついに田中は刑務所で収監されている中で「天皇主義」へと転向していった。

田中はここで考えに考え抜いた末に

「結局、マルクスの共産主義というのは一神教のキリスト教とギリシャ文明を母体に

混合して創られたものだ」母の死を契機にマルクス共産主義に疑念を持ち始めた田中だったが

ついに、表面を覆っていたマルクス共産主義との決別を決意した。

「日本には八百万の神々というものがあり全てのものに神が宿っているという信仰がある。

自分をどうひっぺがえしてもここから抜け出すことは出来ない。これらは血であり肉である。

そしてこれらの祭りごとを統合しているのが皇室であり天皇であり、

諸民族の統合のシンボルである天皇というバックボーンの中で自分は生きいている」

そして刑務所の中に有りながら共に服役中の小宮山ひでと結婚した。

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生涯の師となる山本玄峰

刑務所の中でも山本玄峰のはなしを聞き腑に落ちるところもあった。

山本玄峰への橋渡しは、歴代総理指南役ともいわれた四元義隆がしてくれた。

後に田中は、戦後復興で神中組(三幸建設)を起こすが、四元へ会社ごと譲渡している。

そして田中は山本玄峰の元へ修行に行く。

「自分の本当のルーツを探してマルクスや惟神(かんながら)という狭い範囲でなく

自分の本当の進むべき道を探したい」と申し出た。

修行をしていく中で、田中は次第に「活殺自在」というものを覚悟していくようになっていく。

ちょうど太平洋戦争の頃で、敗戦色も高まってきているときで山本玄峰の元には

大臣やら政治家やら色々な人が訪ねてきていた。

田中は山本玄峰の秘書のような形で様々な要人との話にも加わるようになり

時には代役で話に行くこともあった。

修行の最後には

「今日の公案は日本をどうするかじゃ」

と訪ねられて

「日本は戦争をとめるしか有りません」

というと

それでは駄目だという。

山本玄峰は

「日本は大関だ(当時は横綱でなく大関が最高位)から、勝つもきれい、負けるもきれい。

無条件で戦争に負けることだ」といった。

田中はこれを聞き

「俺は日本を救うために動く!」と人生を決めたという。

まず神中組という土木工事の会社(結社のようなところもあった)をつくり

戦後復興に備えた一方で

敗戦になれば、戦後工作と天皇の問題が必ず出てくる。

これを何とかしなければ・・と考えていた。

そんな折知り合いの新聞記者に頼み、天皇護持について論文を書いた。

曰く「諸民族の連合体である日本は大和民族を形成して今日までこれたのは

天皇制があったためである」というもので、これは週間朝日であったが

当時の禁衛府長官だった菊池盛登がこれをみて、天皇に見せた。

菊池は田中と天皇を会わせたいと思い、複数の大臣や侍従がいる中で

天皇に会い、退位すべきではない。と1時間ほど意見を伝えたという。

後に田中に救われたという天皇の言葉もともっており、

有名な玉音放送で「たえがたきをたえ、しのびがたきをしのび・・・」

という言葉は山本玄峰の言葉だと伝わっている。

田中はその後も一貫して政治家ではないが、時には政治家をも凌駕するような動きを

何度もしている。

日本の戦後復興を進める一方でインドネシアの戦後復興にも協力をして欲しいと

当時興銀の課長だった中山素平さんに言われてインドネシアにも進出している。

また元々安保闘争にも賛成でもなかったということで学生運動家にも資金提供しているが

これは、反アメリカ、反ソ連という意気込みが気に入ったためと後述している。

こうしているうちに時の岸政権やそれを支える一派が田中が行っていることが

気に入らないとしており、ついに児玉誉士夫の手先と思われる一派から

暗殺未遂もあった。

元々田中が刑務所から出所の折に身元引受人だった冨田健治という人から

の紹介もあり、山口組三代目田岡一雄と知り合うことになる。

とても二人は相性がよく「麻薬追放・国土浄化連盟」をつくり

国民運動も展開していった。

また海外でも、オットー大公やハイエク教授との親交もあるが、これは

鹿島建設の創業者である鹿島守之助の紹介でもあった。

このような紹介も有りヨーロッパの王室との繋がりもできていき

やがては中東アラブ諸国とのパイプも作っていくことなる。

戦後復興の中で日本には石油がない、しかも石油がなければ経済復興も

ままならないということで、田中は石油を求めてアラブやインドネシアへ出かけていく。

中東とインドネシアでは王室つながっていたり高官同士が知人だったりする関係も

あり、ここでも国益を我が物にしようとする国内外の妨害にあったりするが

最終的に石油をすることに成功する。

更に、田中はインドネシア、中国、日本が中心になったアジア連盟構想をもっており

スハルト大統領や中国の鄧小平とも面談している。

実際には、アセアンという形で実現しているがここには中国も日本も加わっていない。

この鄧小平との会話はのこっているが、当時を振り返る貴重なものだ。

そして鄧小平との面談には「天皇訪中」という大きな役割があった。

日本の外務省も何をやっていたかと思うが、外交でも人対人。

それだけ海外からも信頼が置ける人物と買われていたのだと思う。

後年田中は、なぜこのようなことが出来たのか?

という質問に対して

「自分は日本人だ。国を想い語ればこれは国境など関係なく支持されるということでしょう。

それと大事という人は徹底的に応援する。その人が何か困ってないか?そんなことを

考えたり進言してみると聞いてくれるものです。何せこっちは日本人ですから。

日本人という信頼は世界でも間違いなくトップですから」

この方を政治家でも事業家でもなくどう表現すればとおもったら

「日本人だ」でいい、ということだった。

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石川博信

石川博信

2009年ジーレックスジャパン株式会社創業。 日本の文化や歴史好き。小学校時代は通信簿で「オール1」の落ちこぼれ。日本にある素晴らしいものごとを国内外に広めていきたい。 それが私たちの想いです。長い歴史と四季のある気候に育まれた日本文化は、国内では衰退しつつある一方で、海外では日本の食文化、武道、芸道からコミック・アニメまでその愛好者は増加しています。 国内においては、日本の持つ素晴らしいものごとを見直し、海外においては、様々な商品にある歴史、ストーリー、想いを伝えていく。 日本のものごとが国内外へ広がり、その中で日本の文化や精神性に触れる機会を多く創出し、日本の素晴らしさを知って頂く事が、日本そして人類にとってもより良い社会へ繋がると考えております。
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