偉人の仕事の進め方 大久保利通
公開日:
:
最終更新日:2018/06/04
偉人伝 ものの見方
明治維新の元勲 大久保利通
大久保利通 1830-1878
西郷隆盛、木戸孝允と並んで維新の三傑といわれる。
薩摩藩士であるが、元々は身分が高いわけではなく下級武士であった。
盟友であり同志であった西郷隆盛とは薩摩の下加治屋町の郷中や藩校での
同期でもあった。武術はあまり得意ではなかったが読書は得意だったという。
父が薩摩のお家騒動に巻き込まれお役御免となり大久保家は貧困を極めた。
このとき西郷の家で食事を頂いたりしていた時期もあったが、食事の時は
静かに食べて片付けをして一礼し、そっとかえるという様子だったという。
キーパーソンへの取り入る方法として
精忠組(薩摩の若手尊皇派)の領袖となり、
実質的な藩主(島津久光)が碁が
好きで寺の住職相手にしていることがわかると、
寺の住職へ藩政への意見の数々を手紙にして渡し続けた。
実に3年もの間出し続けたという。
その甲斐があって島津久光との面会が叶い
御子納戸役(財務担当)に抜擢されその後藩政に参与することになっていき
やがて頭取、御側役となり久光の側近として藩政の政局にも大きな影響力を与えるように
徐々に成っていく。
その後は薩摩を楯に、西郷と共に幕末維新を創りあげていく原動力になった。
大久保利通の仕事術
維新の元勲である西郷隆盛や木戸孝允も優れた能力であったが
明治維新を終えた新政府はなによりも新たな統治機構を求めていた。
幕藩体制から変化で新政府は混乱の中早く国内情勢を安定させ近代化を
急ぐ必要があった。
その中で大久保利通の力が幕末期以上に新政府でも求められていた状況でもあった。
そして明治政府は藩閥政府といわれるが大久保は同郷の薩摩人を「戦には役立つが政治には
あまり向きません」とし、郷里を身びいきすることもせず、反対に他の出身者にも
「諸君らは日本の為に働け、薩長のためと思うな。国家の役人だから誇りをもってやれ」
とし、あえて藩閥政治をさせていなかった。
しかし、このために薩摩藩出身以外からの支持がある一方で郷里である薩摩からはあまり人気がなかったこともある。
維新後は内務省を創設し自らトップになり、他の省庁もあるが事実上日本の最高実力者として
君臨したともいえる。当時の内務省は農水、国交省、文部、厚労、警察、自治省など併せ持った巨大な
省庁であった。
維新が成立し、いよいよ日本の近代化という所で富国強兵、殖産興業を成し遂げるはずには
スピードをもって次々に浮かび上がる大きな仕事を進めなければならない。
そのため、縁故での入省ではなく、実力を重んじたともいえる。
そのため有能な人材を全国から呼び寄せ適材適所に仕事を与えていった。
無私の心で日本の為にということで集まった有能な人材は短期間のうちに近代国家となる
礎を作っていくことになる。これは現代の日本の官僚機構の現状でも体制を受けついでいる
とも言われる。短期間にここまでの統治機構の礎つくったのは共感するほかない。
大久保の新政府でのシゴトの仕方は常に同じようなやり方であった。
郷里である薩摩でも行われている仕事の仕方である。
これは人材を選定すると
目標や目的、意義を話すと細かい指示を与えず
「後は命一杯やれ、責任は俺が取る」
という方法であった。
国家を背負うべく全国から有志が集まってきており皆、新国家のために
心血を注ぐ覚悟でいる。もちろん凄い仕事量だったので一つ一つ細かく
見ていくということも出来なかった理由もあるだろうが、後に
大久保からこのように仕事を託された官僚は
「死に物狂いで仕事に打ち込んだ、大変だったが安心して
仕事に取り組むことができた」と振り返っている。
その中で前島密がいる。
前島密 越後出身で明治の黎明期に日本の郵便制度を創った
日本の郵便制度を整備したことで有名だがこの前島も大久保の下で
力を発揮した。郵便制度だけでなく後に地方制度の「新三法」の起草をした。
この新三法とは「郡区町村編成法」「府県会規則」「地方税規則」であるが中央官庁と
地方を結ぶ官僚体系である。前島はシステム化という所まで能力を出し切った。
これも今も生きている国の体系である。
また、旧福井藩士の佐々木長敦はオーストリアに出張し養蚕製糸業を調べた。
佐々木は帰国すると大久保に呼び出され「内務省養蚕掛」に任命されて
事業の全てを任された。
佐々木が「まず日本に紡績工場をつくるべきだ」と進言すれば
大久保から「すぐとりかかれ」といわれこうして群馬県に日本初の工場ができた。
また、大久保は河や港湾の改修や整備が近代化には不可欠と考えていた。
その中でもオランダが優れているということが分かると早速スカウトし
日本の河、港湾工事をまだ30歳にならないオランダ人青年に任せた
月給は当時300円という(現代ではおおよそ500万円程度といわれる)
破格の待遇であった。オランダ人青年はヨハネス・デレーケという。
オランダ人であったが日本治水の父としてその名を残した
日本に30年以上駐在し、大久保からの仕事を見事にやり遂げた。
また、大久保は農業の近代化も行おうとしていた。前田正名がパリで優良な苗を買ってきたと聞くと
「種苗の育成は三田の薩摩藩邸で行うように。すぐ取り掛かれ」
といわれたが、このときは西南戦争の真っ最中で大久保は京都で軍務についていた。
呼び出された前田は「こんなときにまで種苗のことを考えているのか・・・」と
驚いたという。
大久保の私情を挟まない公平な人事
思い切った仕事の任せ方
この姿勢が近代国家日本を創る原動力になりそれが現代日本の礎に成っている。
大久保の仕事の勧め方は薩摩での仕事にも通じる。
すなわち、抜擢した部下に自分の権限を与えて仕事に取り組ませる。
部下には目標と目的意義しか伝えない。
後は命一杯やれ!という仕事の仕方。
凄い仕事の方法ですね。
大久保という人物は同じ郷里の西郷さんに比べると地元でも人気がないと
いうかいうがとても学ぶところが多い日本の偉人の1人であると思う。
清廉の人 大久保利通
非常に金銭に潔白であった。そしてまだ脆弱だった新政府は予算の足りない事業も
しばしばあり、私財を投じて行っていたことが後にわかった。
大久保が亡くなって遺産が140円(今でおよそ280万円程度)に対して80000円(今でおよそ16億)
もの借金が残っていることが分かった。所有財産も全て抵当に入っていたが、
大久保の志を知っていた債権者たちも死後、債権返済を求めなかったという。
借金は後に政府が回収できるところからは回収し
更に募金を募り返済し、遺族を養うことにした。
私財をも投げ打って事業に尽くした大久保利通は政治家というより
ステーツマンとして織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と並ぶ人物であったと思う。
特に官軍として幕府を倒したわけだが、幕府を創った徳川家康からもっとも多く
学んだというから皮肉というか、ここが歴史の面白いというところですね。
石川博信
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