偉人の先見性⑥ 板垣退助
公開日:
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最終更新日:2017/08/02
偉人伝 ものの見方
板垣退助(1837-1919) 自由民権運動で知られる維新の功労者
土佐藩の上士として生まれ育った。(先祖のいわれは武田信玄の家老であった板垣信方であった)わんぱくだった少年時代から
良くケンカをしていたが、負けても叱られ、勝っても卑怯な手を使うと叱られた。武士らしく勝ちなさいと母に諭され
後に、幕末維新から明治新政府になってからもこの頃身についた価値観が大きく影響したそうだ。
板垣退助というと、自由民権運動が有名で、政党政治への礎を使った方としても知られるが
元々は土佐藩士であり、幕末から維新にいたるまでは土佐藩を代表して薩長勢力と共に、戊辰戦争に加わっている。
軍事が得意であり、特に会津戦争では総指揮官として手腕を発揮し、西郷隆盛もその指揮ぶりを賛辞している。
板垣退助は幕末から頭角を現す
板垣退助はそもそも、武士の中で上級階級に属しており比較的、土佐藩の中でも力を持ちやすい位置に
いたことは確かだが、25歳のときに藩主、山内容堂に見出されて御用人になり
それから出世の道が開けていったがそもそも、藩主自体は、いわゆる公武合体を推進していた。
これに対し土佐藩では土佐勤王党など若手中心の尊皇攘夷者が増えてきており藩政にも
影響を及ぼすようになっていた。
そんなおり、藩政の筆頭である吉田東洋を暗殺されるという事件があり、藩主である山内容堂は
土佐勤王党の弾圧にかかり、その方法を板垣退助に相談し、板垣自身も勤王ではあるが
土佐勤王党、特に首領の武市半平太のやり方には憤慨していた為、ここに藩主の命をうけ
土佐勤王党の弾圧が始っていく。
武市派は弾圧するが勤王の必要性は感じていた
土佐勤王党の弾圧を始めるにあたり、彼ら一党を検挙し勢いを一時的に抑えておくと
いう考えであったが、藩主、山内容堂の怒りはすざまじく首謀者はじめ、ことごとく
斬首、さらし者など処刑を行った藩主のやり方に納得せず、御用人であったにも
係わらす、やめてしまい、自宅に引きこもってしまった。
本来は板垣退助自身は、勤王であり、その点では勤王党と同じなのだ。
ただ、土佐勤王党のやり方には反対であったために、検挙にしても
板垣は率先して行ったいきさつがあり、これは自分と考えは近い勢力であった
勤王党の弾圧については、検挙した後はしばし、謹慎などさせた上で時節が来れば
また活動もできるだろうという考えもあったと思う。
勤王という旗を掲げる
その後、幕末維新の激しい情勢の中で薩長がいよいよ同盟を組み、倒幕勢力が
出来つつある中、土佐藩はこの動きに少し遅れている感もあり、先に脱藩した
中岡慎太郎(このときは既に脱藩の罪を許されている)が土佐勤王党の党首に
なって欲しいと要望してきており、板垣はそれを受けて土佐勤王党の党首として
薩長と連絡を取るようになり、土佐に勤王という旗を掲げていった。
また、密かに薩摩と通じ、薩土密約を行い、倒幕を行うことを約束。
それから、土佐でも、勤王党の仲間を増やし倒幕勢力を結集することに勤める
ことになる。このときに板垣が決断した薩土密約だが倒幕の勢力になったが
もし、ここでこのようなことをしていなければ土佐自体、明治新政府での立場も
とても弱いものになったと思う。
先に述べたように戊辰戦争での会津戦争の際に官軍の総司令官として戦功
を収め、明治政府の中でも中枢に位置することになる。
明治新政府の要職から政治改革へ
板垣退助は明治政府の参議になり中枢にいたが、明治5~6年にあったいわゆる征韓論で
西郷隆盛、江藤新平などとそのときの社会不安としてあった不平士族のエネルギーを
外へ向ける意図もあり進めていたが、大久保、岩倉ら実力者によって阻まれてしまう。
結果明治6年に下野することになる。
その後、自由民権運動という大きな運動目標に設定した。
国会を早期に開設し政治改革をして藩閥政治を倒そう
西郷隆盛にも相談するが、西郷はそれは武力倒すほかはない。ということで
意見があわなかった。
板垣は、武力ではなく、平和裏に、立憲的に政治改革を達成をしようとしていた。
実際に征韓論の後、佐賀の乱や西南戦争など起きたが、板垣は戦争での決起は
しなかった。
板垣はその後、日本で最初の政治結社といえる「立志社」を創り自由民権ののろしを挙げた。
このような大きな目標を掲げそして藩閥政治への不満は社会も覆っており
出身である、土佐は自由民権運動の本拠地となっていき、更に土佐から全国へ広がっていく
ことになる。
明治13年には各地の民権団体が連合して「国会期成同盟」が結成された
板垣はリーダーにえらばれこの団体が母体となり明治14年10月には
自由党が結成され、板垣は自由党総裁として藩閥政府に大きなプレッシャーを
以後、かけていくことになる。
この運動があまりに早く、そして大規模で全国へ広がった為に
政府は国会の早期開設を約束し、又、板垣を参議として招集するが
とりこみ作戦ということが分かるとまた、すぐに下野して自由民権運動を
開始する。その後、明治15年に暴漢に襲われるが
「板垣死すとも、自由はしなず」
という名文句を言ったといわれる(これは定かではない)
後に、帝国議会の開設にあたり大きな影響力もあったが、自身でも抑えきれないほど
自由民権運動は大きくなっており、その後様々な政党が出来、日本の政党政治時代を向けていくが
この礎をつくったことは間違いないだろう。
大きな目標と分かりやすいビジョンを示してきた板垣退助だったが
坂本龍馬の影響もとても大きかったといわれている。
石川博信
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