偉人の先見性 小早川隆景
公開日:
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最終更新日:2017/07/25
偉人伝 ものの見方
小早川隆景 毛利家を支えた知将
小早川隆景(1533~1597)
戦国武将毛利元就の三男として生まれ、後に小早川家へ養子に出される。
養子に出された先の小早川家でも内紛もあり、分家などがバラバラであった状態であったが
後に統合する。兄であった毛利隆元、吉川元春とともに毛利本家を支え毛利両川(りょうせん)と
といわれ主家を支えていった。水軍を率いての戦いに長け、大大名としていち早く織田信長亡き後、
豊臣秀吉の天下を予見し秀吉の従属した。以後、豊臣政権でも毛利本家と共に秀吉に重宝され
五大老の1人として活躍する(事実上毛利の代表者であった)
小早川隆景はいわば、親会社の社長でまだまだ経験不足の毛利輝元を助ける子会社の社長という役割もあった。
小早川隆景の先見性
織田信長が明智光秀の裏切りにあい、本能寺の変が起きたときには、小早川隆景は秀吉が水攻めをしている
高松城城主である、清水宗治の応援に大軍を率いて高松城に向かっていた。
ところが秀吉が突然講和を申しこんできた。講和の条件は「清水宗治が切腹すれば城兵は全て助ける」というものだった。
これを聞いて小早川隆景は「何かあったな・・」と感じていたと思う。
というのも彼は日頃から京都を中心に政局の情報収集に勤めており、天下の動向に目を光らせていたという。
当時、織田信長は全盛期であるが、信長や秀吉をしる安国寺恵慶という僧(参謀役でもあった)からも
「今は信長全盛だがやがて倒れるだろう。秀吉こそ信長のあとを継ぐものだ」という言葉も聞いている。
ほとんどの武将は秀吉については、まだそこまでの武将とは思っていない。
信長に何かあれば、同盟者の家康か筆頭家老の柴田勝家が後をつぎ天下を治めるだろうと噂もしていた。
実際に高松城が開城し、清水宗治が切腹した後に、毛利は信長が本能寺で倒れたことをしった。
毛利輝元はじめ吉川元春や重臣たちも、これには「秀吉に一杯食わされた!」と激昂し
すぐ追撃し秀吉を討ち取るべきだ!という意見が多く、追撃という方針でまとまるかという
時に、小早川隆景は「ちょっと、またれよ」と軍議をさえぎり
「秀吉の出方を伺うほうが良い。秀吉が主君が殺されたということを我々に知らせず軍を引き上げ
れば我々を騙したことになる。そのときは追撃もある。しかし毛利に正式に信長の死を知らせて
くることがあればそれは秀吉の器量と見ることができる。今しばらく待たれよ」
そして信長亡き後の天下の見通しを話し、秀吉は天下人へきっとなる。
毛利は、天下を目指すなどという欲を掻く物ではない。と輝元や吉川元春に伝えたという。
これは秀吉をかっていたという側面もあるが、父(毛利元就)や兄(毛利隆元)であれば
天下を取れる器量も経験もあるが、まだ若い毛利輝元では到底成し遂げられないと
いう考えもあったという。人を良く見る隆景らしい見識ともいえる。
まもなく秀吉からの使者がやってきたが、
使者としてやってきたのは黒田官兵衛だった。
後に黒田官兵衛とはお互い認め合う存在になるがそれはまだ後の事。
「主君、織田信長が本能寺にて急死の為、急ぎ京へ戻ります」
この話を聞いてもなお、重臣達は、今こそ、追撃すべし!と意見が強かった。
しかし、隆景の心はここで決まった。
続けて黒田官兵衛は言った。
「主君を裏切り殺したのは明智光秀である。このため我らは主君の仇を討つべく戻ります」
隆景は
「あいわかった」と答えた。
黒田官兵衛は続けて
「主君の仇を討つのは武門では当然のこと。しかしその主君はもういない。今後は我々と
昵懇に願いたい。ついては毛利の軍旗をお借りしたい」
周りの重臣たちは、
「なにをふざけたことを!こいつも殺せ!」などいきまいていたが
隆景は
「あいわかった。旗も好きなだけもっていくがいい」と語った。
実際に秀吉軍は明智光秀と戦い(山崎の合戦)その際に、明智軍が秀吉の軍旗の中に毛利の軍旗も
混じっているもの見て、
「毛利も秀吉軍についているのか」とすっかり戦意喪失したという。
その後は、秀吉と同盟関係さらに従属するにいたるが、豊臣秀吉が天下を取った際にも
毛利一門への優遇は大きく、隆景もまた豊臣政権の重臣の一人となり、そのことで
毛利家の安泰を図った。また秀吉も毛利への恩を忘れなかった。
小早川隆景のエピソード
豊臣秀吉からは
「東の政治は家康に、西の政治は隆景に任せておけば間違いはない」
と語られたという。それだけ能力も高く信頼されていたのだろう。
黒田官兵衛との会話では
「あなたは頭が良いので即決即断で事を決めて進めることができるが
反面後悔することも多いだろう。私はあなたほど頭が良くないのでその分
じっくり判断して行動するので後悔は少ない」と語っています。
小早川隆景が亡くなったとしると黒田官兵衛は
「これで日本には賢人が居なくなった」と大変悲しんだといわれています。
また亡くなる前に甥であり毛利本家を継いでいる輝元に
3か条の遺言を残しています。簡潔にいうこのようなことです
①天下が乱れても戦争に加わってはならない。
なぜなら輝元は天下を取れる器がないからだ。くれぐれも自重せよ。
②安国寺恵慶の姦計には乗っては成らない
③近隣の大名から船着場として領地を貸して欲しいと話があるだろうが
決して貸してはならない。それを口実に領土を攻める狙いがあるからだ。
と言い残しています。
歴史にタラ、レバはありませんが、毛利家は小早川隆景のいうとうりの結果に
成ってしまった。
この先見性は小早川隆景の場合には多くを毛利を守るために使ったといえるでしょう。
偉大だった父、そして優秀で人望もあり後を継ぐはずだった兄。
共に戦い、尊敬もする二人の死後、本家を支え続けるために
その能力をつかったといえるでしょう。
石川博信
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