今、見直したい実業家 三井物産創業者 益田孝
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最終更新日:2023/03/06
偉人伝 ものの見方
留学時代の益田孝
今と違い、海外が遠かった時代に果敢に貿易に取り組んだ。
条約でも日本は当初不利な状況であったが、実績をつくりそこから、条約改正をしようと
事業を成長させていった。
今、益田孝の仕事は、改めて注目されてもよいのではないかと思う。
今の三井物産の礎を造った才覚も先見性も学ぶところが多い。
益田孝 三井物産を日本最大の財閥に育て上げた立役者
「俺はお金が欲しいんじゃない、仕事がしたいんだ」
今、もっと見直されてよいと思う実業家。
益田孝。三井物産創業者で、明治初頭にすでに世界精神で
仕事をしていた方です。
今のコロナによる社会変革も大きな変化がでています。
このようなときには学ぶことが多いと思うのです。
幕末の日本、そして明治初頭に世界とのシゴトを視野に入れて
活動し、後に三井物産を創設し日本最大の財閥にまで押し上げたのが
益田孝です。
益田孝は元は幕臣で15代将軍の徳川慶喜から直々に騎兵部隊のリーダー格であった。
旺盛な好奇心と上昇志向で三井を大財閥に育て上げた。
こういう仕事をしたい、それにはどうすればできるか?
それを常に追い続けそして物事を成していく。
妥協をしないその姿勢は安易な妥協によって後で取り返しのつかないことに
なるということを知っていたからなのだろう。
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益田孝は幕末から明治期に大きく活躍した方だが、
大きな人生のきっかけは幕府の外国方通便(通訳)となったことだ。
これは、幕府の渡欧に同行を許されてこのときに語学を徹底的に学んだことが
生きてきたという。
英語は新しい時代の武器であった。
英語の教師は、ミセスヘボン。
ヘボン式ローマ字で知られるヘボン氏の奥様だ。
ほとんどの日本人が英語が扱えないという状況で
この機会を生かし、語学を身に着けたということは後に大きな武器になっていく。
やがて明治維新が起きて外国との取引が始ろうとしていたが、
当時、日本との貿易は外国人が全て行っており、輸出も輸入も外国商館を
通じて行われていた。
益田は、当時日本に来ていた外国企業である「亜米一」というアメリカの貿易商が
いて、その社長に益田は見込まれ一緒に働いてくれないか?と打診を受ける。
益田からすれば願ったり叶ったりでであったが、自分を安売りするつもりはなく
条件を出した。
1・自分を外国人と同様の待遇にすること
当時日本人は欧米人から見下されていたが、自分がこれを変えてやるという気概を持っていたという
2・契約期間は1年にしてほしい
という条件をだし、それは叶った。
明治三年には、日本は米の大凶作に見舞われた。
そのとき、益田が勤めていた会社は、ラングーンやサイゴンから米を輸入して大いに売りさばいた。
世界中の情報をもち、需給を見込めれば大きなシゴトが出来る
この経験から、米の輸出入や世界中の情報網をもっていれば大きなシゴトが出来ると思い、
貿易にとても大きな魅力を感じたという。
明治初頭は、日本からは生糸、お茶、海産物が主な輸出品であった。
当時、日本の生糸はフランスで絹織物に使われていた。
日本にある外国商館のシゴトとしては自国の武器や船を売ることが主な目的だったが、
外国から他の商品を持ってきて日本で売ろうというものはほとんどなかった。
また、当時外国のと日本との関係で日本の輸出商が外国にものを売ろうとすると
外国商館に一旦納められた。金額も値決めしてあるので問題ないかというとそうではなく、
一旦納入させても、「これは見本とは違う」とか外国本国に問合せして
買い取る業者がいればそのまま引き取るが、居なければ商品を返品してくるという
横暴なシゴトのやり方をしていた。
国力が違う国との取引で、益田は憤慨していたが、いつかこれを覆してやろうと
思っていたという。
益田が最初に貿易として扱った商品は、お茶と海産物で、「中清」という屋号で
仕事をしていた店主からお茶のノウハウを覚えていった。
しかし、新参者であった益田にそもそもお茶を売ってくれるところがなかった。
そこで増田はお茶の名産地を歩きに歩き、お茶を仕入れることができた。
これが原産地の農家との信頼関係を気づいていった。
余談だが、後に利休以来の大茶人と評されるようになる。
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日経新聞の前身となる内外物価新報も創刊した。
情報格差がどれだけ国にも事業にも影響するか良く理解していた
益田孝は、自社だけで独占することなく社会へも情報を伝えていった。
ここにも、公共心が旺盛であったことの一つを見ることができる。
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明治新政府へ出仕する。
明治政府は当初は脆弱であり、時の権力者である井上馨から
「国が強くなければ、発展もない。まず政府をしっかりしたものに
しなければならないから力を貸してくれ」
ということに合意したのである。
薩長が中心の政府は応援してくれた英国との関係が深く
その英国との仕事が多くあり益田はここでも手腕をはっきした。
その後政府を離れるが、井上とも会社を起こし
貿易を進めるようになった。
その後、政府からは我々の意図を組みしっかりしたシゴトをしてくれる
会社が日本には必要だ、それを引き受けて欲しいと大隈重信から依頼された。
ここで、益田はまた条件をつける。
それは一切仕事は自分に任せるということ。
くちばしは挟まないでもらいたいということであった。
大きな仕事であったが、
ここで部下に
「これからの仕事はコミッションビジネスであるべきだ。
売り買いどちらもできる貿易でなければならない。
自分が危険を負担するようなものは行わない。
思惑をしてはならない」
さらに
利益よりも発展をみつめよ
発展をみれば今はたとえ利益は薄くてもやがて大きな実となり
帰ってくるという考えであった。
益田は、情報という観点からも大変優れており、世界中に支店を作りまくった。
世界を相手に、売り買いするのであれば当然現地の情報が必要になる。
日本と一外国ではなく、世界対世界であれば無尽蔵に仕事はひろがり
それで更に国力もついてい来るという考えであった。
炭鉱の開発から米の輸出入など段々総合商社の基盤が出来つつあったときに
日清、日露戦争がおきて戦争特需で巨大な利益を上げてついに日本最大の財閥になった。
増田は後年このようにかたっている。
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「仕事は人との繋がりが第一で、どれをすれば発展性があるか?
どんな商売でも「売り手」と「買い手」がいる。
どこに波が来ているか?は情報収集を怠らないことだ」
人との繋がり、情報収集の重要性を説いています。
今では世界的な企業になった三井物産は、
外国では社章から「イゲタサン」と呼ばれており、世界中何処でもいると
言われているそうだ。
益田の開発精神が今も宿っているのでしょうね。
石川博信
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